仏さまの願い
(一言法話)

他力本願

2024.07.07

挿絵は法友の美馬さんのAnカレンダーより転載

 

 「他力本願」ほど、誤解され、誤用されている言葉はない!そう思うのです。

他人任せ、人任せで自分では何もしないで(楽をして)結果だけ自分のものにする、みたいに思ってる人が多いですよね~。

そうではない、本当の「他力・本願」の意味を知っていただけたらと思います。

 

 私たちは思い通りになることが幸せ(「はぁ極楽極楽」参照)だと思いがちですが、しかしどうも思い通りにならないな、って言うのが現実ですよね。で、思い通りにならないから苦しみ、それでどんなに泣きわめいても、やっぱりどうにもならない。

 「他力」と言うのは「利他力(りたりき)」 私の悲しみや苦しみを知って、私をなんとかその苦しみから救おうとしてくれる仏さまの「はたらき(力)」のことを言うのです。例えば我が子の悲しみを知った時、その親はその子を慈しみただ抱き寄せてくれるように、阿弥陀さまは「まかせておくれ、この弥陀に」と私をその願いに包み込んでくれる、その事を言うのです。

 

 少し私の母親の事をお話いたします。母は47才の時難病にかかり、それから10年の闘病生活をへて57才で往生いたしました。家庭の中心でいつも笑っていた人が病に侵されますと、家中から笑いが消えてしまいます。しかしその家庭にふたたび笑いを取り戻してくれたのもその母でした。母が大切にしていた本があります、それが北海道の大谷派寺院の坊守でいらっしゃった鈴木章子さんの『癌告知の後で』  

 同じ年齢で同じような病魔に侵されつつもお念仏に生きた1人の女性の詩集です。

 

「私がする・・私がしなければ・・私がしてあげる・・と思っていきてきたのが

 してもらう事が多くなったら 主人も子ども達も  

 それぞれが生かされていたのが見えてきた   

 私がいなくなったら・・・と  胸がはりさけそうだったのに 

 残される主人も子ども達も 大きな御手の中・・・ 

 一番大きな心残りが 魔法のようにとけてゆきます」

             (鈴木章子「癌告知のあとで」より)

 

と、残されるご家族も同じ阿弥陀さまのお慈悲の中なのだと喜ばれています。母の本のこのページにはオレンジ色の付箋がありました。

 

 母のお聴聞の場はベッドの上でした。いよいよ臨終にあたって、私に「もういいよね」と笑顔で問い、父や家族1人1人に「ありがとう」と言葉をくれたのです。この母の10年の闘病生活は、そのまま私にとって阿弥陀さまのお説法となりました。

 

さて老いや病気、そしていつ来るかもわからない死の問題は自分の力で解決出来るものでしょうか?「他力本願じゃダメだよ、自力で頑張んなきゃね」とおっしゃる方も(これが誤解誤用)いるけれど、ベッドから自分の力で起き上がることさえも出来なかった私の母に「自分の力で、もっと頑張れ」なんて言えません。もちろん勉強や仕事など、自分の周りの環境を良くするための努力を「自力」というのならそれは大切で立派な事です。けれど私たちの抱えるさまざまな人生の、自分の努力ではどうにもできない老いや病気への不安、そして逃れられない死の問題は私の力ではどうにも出来ないのです。他力とはそんな時にこそ使われる言葉なのです。大切なことなのでもう一度申します、「他力」と言うのは「利他力(りたりき)」 私の悲しみや苦しみを知って、私をなんとかその苦しみから救おうとしてくれる仏さまの「はたらき(力)」のことを言うのです。

 

他力はダメな生き方と言うならば、阿弥陀さまの願いじゃダメだと、自分の力の方が上だとでも言うのですか?それは凡夫(煩悩具足・弱い私)の思い上がり。

本願(阿弥陀さまの願い)は「他力」であって、「自力」ではありません。

 

親鸞聖人は正像末和讃に

  「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情をすてずして

   回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」

 

と阿弥陀さまの本願は苦悩の世界を生きる私のために建てられたものであるとお示しです。苦悩する私の姿を知り抜いて、救わずにはおかない、のが阿弥陀さまのおはたらき(他力)でありそれが阿弥陀さまの願い(本願)なのです。