仏さまの願い
(一言法話)

還る家(お浄土その1)

2024.07.27

 もう35年ほど前になります・・ですので今みたいにスマホで場所がわかったり、ナビゲーションなどもなかった時代の事です、あしからず。

 私の父が心臓の病気で熊本市の大きな病院で検査をすることになりました。私の住んでいる所は宮崎県高千穂町ですが、大きな病院は熊本市の方が近いのです。そして検査ですから、私が車の運転をして連れて行くことにしたのです。

でも、当時の私は熊本市内にあまり詳しくはなく不安でした。「迷いそうやな、いや間違いなく迷うはず」と思ったので立派な?熊本市内の地図を購入して出発しました。

挿絵は法友である美馬さんのAnカレンダーより

 

行きは迷うことなく向かえたのですが、帰り道で案の定・・・

私「親父、道がわからんなったわ」

父「地図は?お前買うてきたち、言いよったろうが」

私「こん地図は役に立たん」

父「何で?熊本ん地図じゃろうが」

私「うん、そうじゃけど・・・今いる場所がわからん」

そうなんです、地図を持っていたとしても今いる場所が確定できなければ、迷った私には役にたちません。父が「そりゃそうじゃ」と笑い、たまたま見つけたガソリンスタンドで今いる場所を教えてもらったのです。

 宗教はある意味、人生と言う旅を行くための地図、ガイドブックなのかもしれません。けれどどんな立派な地図(教え)であっても今の自分の場所、まさに自分の問題を通して見なければしょせん他人事であり、自分には関係ないことになります。

 

 私はこの時、そうかと教えられた事があります。道に迷った・・・と気づかせてくれたものは何か?「迷ってるよ」と教えてくれたのは何か?それは、帰る家だったのです。妻や子ども、母の待つ家に帰ろう、帰りたいと願うから迷ったことに気づけたと思うのです。目的地があるから方向違いにも気づける、迷ったと気づけるのです。

 

 私たちの人生の旅、還るところは仏さまの家、いのちの故郷であるお浄土であるとお聞かせいただいています。そこは大好きだった人たちが一足先に往き、娑婆にいる私を案じてくれている場所。ですから、お浄土はいのち終えてからだけ用事があるところではありません。今の私の人生の迷いに、方向違いに気づいてくれよと「お浄土(還る家)」は常にはたらいてくれているのです。