仏さまの願い
(一言法話)

「安心して泣ける私の居場所」

2024.12.31

この文章は3年前のお正月に合わせて、私(住職)が執筆して本願寺出版社の施本「お正月」に掲載されたものです。

ご門徒の「つぐちゃん」との思い出話です。

 

 

 お正月の風物詩である初詣、日本人のおよそ80%が初詣に行くと聞きました、本当ならすごい数です。年の初めの楽しい風習として神社やお寺に、一年間のお願いごとをし「ご利益」がありますようにとお参りされるのでしょう。それは「健康」の事であったり「家内安全」「商売繁盛」であったり。でも「今年こそ良い年でありますように」とお参りしている方にはつい「そうですか、去年はあなたにとってあまり良い年ではなかったのですか」とか「昨年のお正月も同じお願いしていましたね」なんて意地悪を言いたくなる私です。はたして私たちの思うご利益って何なのでしょう?自分の願い通りになることが幸せであり、それが叶う事がご利益だと受け取る人が多いかも知れませんが、私は思い通りにならなかったことで大切な気づきをもらえた、または何かにであえた、と言うのも大変ありがたいご利益だと思っています。

 

 親鸞さまの御和讃に

「如来の作願をたづぬれば

 苦悩の有情をすてずして 

 回向を首としたまいて 

 大悲心をば成就せり」

 

とこの私の悲しみ苦しみを見抜き、苦悩に生きるものをめあてとして決して捨てないと起こされたのが阿弥陀さまの願いだとお聞かせいただきます。同じ「願い」と言っても自分の都合ばかりの私の願いと仏さまの願いには大きな違いがあるようです。

 

 もう随分と昔になりますが私がまだ若住職と呼ばれていた頃、30代半ばの女性の葬儀をお勤めしました。その方のご家族は小学校にあがる前の女の子男の子お一人ずつの子どもさんと夫であるTさんとの4人家族でした。そのTさんはそれまでお寺にほとんどお参りされたことのない方でしたからお葬式から49日までの仏事はほとんど初めてのご経験であり、いろいろとご相談を重ねるうちに私とのお付き合いが始まりました。

 満中陰も無事に終えやがて年末を迎えた頃、たまたま近所のスーパーで子供たちと一緒に買い物に来られていたTさんにお会いしました。「お~若住職、いいところで会った。聞きたいことがある」といつものように親しげに話しかけて下さるTさん。その聞きたいこととは、まず「喪中であるから神社には行くなと親戚に言われた」こと、「できれば今まで通り初詣はしたい」こと、などのお話でした。確かに年末になると「住職さん、今年ウチは葬式を出しておりまして喪中ですので、正月の神社への初詣は行ったらダメなんですよね」とお尋ねをいただくことがあります。そもそも喪中の定義もあいまいですし私は心配しなくていいと思うのですが、葬儀に関わる習俗からそのように考える方もいらっしゃるようです。「それならお寺においで下さい、お参りの後あたたかい飲み物もたくさん準備してありますからね」と私はお酒の好きなTさんをお誘いしました。その時彼は驚いたように「お寺に行っていいのですか?めでたい時なのに?」とおっしゃったので私は思わず苦笑いしてしまいました。めでたい時は神さまで悲しい時は仏さまと言うイメージなのでしょうか。でも悲しい時ほど私を大切に思ってくれている人にそばにいて欲しいと私は思いますが。

 さて私たちのお寺では大晦日から元日にかけて、除夜の鐘を打ちみなさんで正信偈のお勤めをします。そこにTさんはちゃんとお参り下さいました。その後お接待をするのですが彼は焼酎のお湯割りを飲みながらお寺の本堂でゆっくりとしてくれました。そのうちに参詣の方々もそれぞれお帰りになりましたが、彼は私と二人きりになっても帰るそぶりもありません。正直そろそろ帰ってくれないかなぁ、なんて心の中で思っている私にかまわずTさんは色んな話を続けられます。やがて午前3時頃でしたか、やっと重かった腰を上げ「若、今日はありがとうね、いいお話を聞かせてもらった」と言うのです。私は早く帰って欲しかったのですから、いい話どころかただ相槌を打っていただけなのです。ほとんど一人でしゃべっていたTさん、思えばお連れ合いさんがご往生された後、幼い子供たちの事生活の事、お一人で頑張ってきてさぞ辛かったことだと思います。誰にも言えずにいたのでしょう、子供たちの前では泣くこともできません。その思いの少しばかりでもお話しすることでホッとして、いい話を聞いたと思われたのでしょうか。その後、帰り支度をされて本堂の阿弥陀さまの前に座られました。そして手を合わせ・・・私はお念仏を申されるのかと思ったのです、でもそうではありませんでした。Tさんの肩は次第に震え始め口からは嗚咽が漏れ、その目から大粒の涙がこぼれ始めました。そして大きな声で、亡くなられたお連れ合いさんのお名前を呼んだのです、何度も何度も。畳に伏したまましばらく号泣されていたTさん、やがて顔をあげた彼は私を見てニッコリと微笑みこう言われたのです。「若さん、今日はお寺に来て本当に来てよかった、お寺って、阿弥陀さんの前って泣いていい場所だった。知らんかったよ」と。

 「安心して泣ける私の居場所」ってとても大切な気づきを下さいました。私の生きるこの世界には自分の思い通りになんかならない厳しさがあります。「今年こそ!」と初詣をして去年を忘れて再スタートしようとしても、昨年の私の本当をなかったことにすることは出来ません。そして新しい年に待っているのは、輝かしい未来とは限りません。だからその真実をごまかして生きるか、見つめて生きるかが問われます。本当に厳しい世界です。けれども、その悲しみ苦しみをごまかさずに受け止めろと言われても、強く生きろと言われても、なかなかそれが出来ないそんなに強くない私です。いつまでも涙を流している私ではいけないのでしょうか。

 阿弥陀さまはそんな一人ひとりの悲しみや苦しみをしっかりと見抜いて、それをご自身の悲しみとして受け止めて下さる仏さまですから、涙を流す私をその救いのめあてとしそのままに包み込んで下さいます。そして私の正体はとっくに阿弥陀さまにバレてしまっているので、もう隠すことはありません。隠さなくていいと言うことは本当の安心ではありませんか。だから泣いていいのです、すでにここが安心して泣ける場所であり、常に阿弥陀さまのお慈悲の中にある私なのでした。だからこそ阿弥陀さまの願いが力となって弱い私がそのままに、しっかりと顔を上げ力強く生きることが出来るようになるのです。

 

お仏壇に手をあわせ阿弥陀さまの願いにもう一度であい直させていただくお正月です。思い通りにしたいという自分の都合に一年中振り回されている、そんな私に「知ってるよ」と微笑んでくださる阿弥陀さま「本年もどうぞよろしくお願いいたします」