ホントにすごいことだなぁ、と
私は思っているんです。
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は鎌倉時代に親鸞聖人(しんらんしょうにん)によって開かれました。その立教開宗(浄土真宗が確立され開かれたこと)が1224年とされますから、それから800年が経ちます。
どうでしょう、今から800年前に親鸞さまによって紡がれた言葉が今に伝わり、それが色あせることなく生き生きと現代を生きる私たちの苦悩に寄り添い、その暗闇を光で破ってくださる。その言葉が私を感動させ、生き抜く力を与えてくださる。
私はこれってすごいことだなぁと、思わずにはいられないのです。
浄土真宗ってどんな教えなのでしょう。
ご本尊 は阿弥陀如来(あみだにょらい)さまですが、浄土真宗での阿弥陀さまの仏像を見ると、お立ちになっています。座ってはいらっしゃいません。そして少し前に傾いておられるのです。これは私たちの方に歩まれようとされているお姿だと言われます。阿弥陀さまは私たちの都合の良い願いを聞いてくれる仏さまではありません。自分の思うように生きたくても生きられず悩み苦しむ私にむかって「その迷いをはなれ安心のいのちへと導く」と言う願いを立て「絶対に見捨てない」と誓って下さった仏さまです。その願いをもつ仏さまが私たちのご本尊です。
また阿弥陀さまの仏像だけでなく、私たちの称える「なんまんだぶつ」も阿弥陀さまなのです。南無阿弥陀仏は阿弥陀さまのお名前(名号)ですから文字として書かれた「南無阿弥陀仏」も、私たちが口に称える「南無阿弥陀仏」も大切なご本尊と言えます。?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、その意味(いわれ)を聞き、知らされていくと阿弥陀さまがいつも私の口から出てくれる、私の耳に阿弥陀さまが届いてくれることが本当に嬉しくなるんですよね。これが、ありがたいね、ってことなんです。
念仏 ですから私たちはお念仏を大切にします。阿弥陀さまはいつも私を大切な一人子のように包んで下さいます。幼い頃は母に甘えて「おかあさん」と名を呼んだことが誰でもあるでしょう。それは母の慈悲に抱かれた安心の表れでもあり、その私の声を聞いた母は私の親であることを喜んでくれていたのではないでしょうか。それと同じように私の悲しみを知り抜いて、私の苦しみに先んじて涙し、ここにいるよ、必ずあなたを救いとると言う願いを持たれた阿弥陀さまですから、私はその阿弥陀さまの願いを信じて、嬉しくて感謝して名前を呼ぶ、それが称名(南無阿弥陀仏と名を称える)なのです。
さて浄土真宗の大切な教えなのに、現代で誤解され間違って使われている言葉があります。特によく間違えられるのが「他力本願」です。一般的には良くない意味で使われることが多いようですね。「他力」は人任せで無責任な様子「自力」は自分の力で頑張ることで立派なこと・・みたいな。これが大きな誤解なのです。そして我々浄土真宗を大切に思う者にとって大変な問題なのです。
まず仏教でいう自力他力は、私の命の問題(生老病死)をどう解決しお悟りへの歩みをするのか、と言う上において語られるものなのです。ですからスポーツで勝利のために行う精一杯の努力や、仕事で目的を達成するための頑張りなどには「本願」がつく仏教的な言葉としては使われません。
お釈迦さまは「人生は苦なり」とおっしゃいました。生老病死の問題は自分でどんなに努力しようともどうにもならない事ですよね。そんな私たちの苦悩に対して「頑張れないアナタではダメだ、悲しんでる暇はない、泣くな、自分の力でこの困難(人生苦)を打ち破るんだ」と言われてるのが自力。なんだかカッコいいですね、けどとても辛そう。そしてもし達成出来なかったら・・「自己責任」アンタが悪い!と言われそうで怖いです。
私たちはそんなに強いでしょうか?立派なのでしょうか?
では「他力」とは・・・「他力」の他は他人の他ではありません。私たちの四苦八苦の世界を見抜かれた阿弥陀仏の、私たちを幸せにしたいという願い(はたらき)を「利他力(りたりき)」といいます。つまり他を利する(利益する、幸せにする)力(はたらき)なのです。その利を省略して他力とされました。ですから、他力の他は私たちのことであり阿弥陀さまの願い(はたらき、力)そのものの事なのです。阿弥陀さまは老病死の苦から逃れられない私をほおっておけないと、本当のしあわせにする、と誓われました。そのお誓いを「本願」と言うのです。
だから他力こそが弥陀の本願 それを「他力本願」というのです。
自力とは 自分に酔うこと
他力とは 心の目が覚めること あるお寺の掲示板にあった言葉です
自力とは自分を過信すること
他力とは自分に謙虚になれること とも言えます
自力とは自己中心的な願いのための苦悩
他力とは阿弥陀如来の願いにまかせる安心 でしょうか。
ちなみに「自力」は阿弥陀さまの願い(本願)ではありませんから、自力本願なんて言う言葉はどこにも存在しませんので、どうぞお使いにはなられませんようにお気をつけください。
信心 信心深い と言われていた方は毎朝自宅の阿弥陀さまにご挨拶して、神棚にお参りして、近くのお地蔵さんに手を合わせ、水神さんにお参りしお稲荷さんにお供えをし・・・
う~ん、それが信心深いってことなのでしょうか?
そもそも信心ってなんなのでしょう。
親鸞さまは「尊号真像銘文」(親鸞さまの著書)に信心のことを阿弥陀さまの本願のお言葉を引用されながらこう示されました。「信楽(他力の信心)というのは阿弥陀さまの本願が真実だとひとすじに深く信じて疑わないので、これを信楽(他力信心)と言うのです」さてこの中にある「ひとすじに」は原本ですと「ふたごころなく」と示されます。ふたごころ、どころか2つ、3つ・・・いや、4つ、5つと 色んな仏さまや神さま、数打てばどれか当たるだろうとお参りしていませんか(笑)
あの仏さまも、あの神様も・・となると本当に信じていることにはなりません
どちらかと言うと阿弥陀さまの願いを疑っていることになりませんか。
私たちの信心に私のはからいが混じると、それは真実の信心とは言えません。阿弥陀さまの(疑いをはなれることの難しいこの私を見抜かれた)願いが真実であることを、その願いに包まれていることに安心して、疑いなく素直に嬉しいなぁと喜ぶ心が私たちの「信心」なのです。
ですので、最初に例としてご紹介した方は・・・残念ながら信心深くないですね、ごめんなさい。
悪人 他力本願と並んで、誤解されているのが「悪人正機(悪人こそ阿弥陀さまの救いのめあて)」という考え方です。通常は善人が救われて、悪人は地獄行き であるならば納得できるのですが、しかし親鸞さまは善人が救われるのであるならば、悪人はなおさら往生できるとおっしゃるのです。実は親鸞さまがおっしゃる「悪人」とは、必ずしも社会的な犯罪者を指すものではなく、煩悩や欲望に囚われた私の事であり、そんな私は縁があったらどんなことでもしてしまいかねない存在である、そのことを自ら悪人であったと気づかされた者と言う意味でおっしゃっているのです。親鸞さまは、自身を含めたすべての人々が煩悩を持つ存在(凡夫)であり、自分の力では苦悩の解決も、浄土に往生することも出来ない。だからこそ、誰もが阿弥陀仏の願いに任せていくことを勧められたのです。ちなみにここで親鸞さまがおっしゃる「善人」とは自分の愚かさ、弱さに気づくことなく自力(自分の力)を過信して仏の願いを聞こうともしない人のことです。
凡夫と言うは無明煩悩われらが身にみちみちて
欲もおおく いかり はらだち そねみ ねたむこころおおくひまなくして
臨終の一念にいたるまで とどまらず きえず たえず (一念多念文意)
何故、阿弥陀さまは自力を捨て、他力を選び取ることを勧められたのでしょうか。それは他力でなければすべてのいのちを平等に救いとることができないからなのです。例えば足の速い人もいれば遅い人もいる。勉強がよくできる人とそうでない人、よくおしゃべりする人と無口な人、十人十色どころか百人百色、千人、万人・・・いく通りものいのちがあります。親鸞さまは「十方微塵世界」と和讃におっしゃいます、十方とは四方八方に上下をあわせた方向、広い広い世界を「十方の世界」とあらわされ、その十方と世界の間に「微塵」と言う言葉をはさまれました。細かなるもの、です。広い世界には多くの命が存在し、その命の数だけ命の世界があり、まさに微塵なる一つひとつの命に、それぞれの悲しみや苦悩の世界がある、と言うことでしょう。
このそれぞれに異なる命に、何か救いの為の条件をつけたら、それが出来ない命はそこからこぼれてしまいますよね。無条件の救い、そのためにほんの少しもこちら側(私)にリクエストされないのです。「大丈夫だから阿弥陀にまかせなさい」とすべての命に呼びかけられるのです。その呼び声が「南無(まかせよ)阿弥陀仏(この弥陀に)」なのです。だからお念仏は阿弥陀さまのお名前であり、願いであり、阿弥陀さまそのものなのです。本当の平等であり、無条件の救いだと言えます。
阿弥陀さまが何の条件もなく、私(すべての命あるもの)をそのままに包み込んでくれる、それが浄土真宗の救いなのです。
この世の縁が尽きるとき、みなさんはどこに行くのですか、何になるのですかと尋ねられたらどうお答えになりますか?あまりにも問題が大きすぎるのでなんとも答えようがなく困ってしまいますよね。「そんなもん、縁起でもない」と考えるのをやめてしまう人や「死んだらしまいよ、何にもない」と投げやりな人。また「お星さまになったんだよ」というロマンチストに「天国に行ったんだよ」と言う仏教徒(天国はキリスト教では?)などまぁ様々です。
阿弥陀さまが私たちに向けてくださった願いには、私は死ぬのではなく、阿弥陀さまの国に生まれるのだとあります。てっきり死ぬとばかり思っていましたが「我が国に生まれんと欲え」とおっしゃるのです。その「我が国」がお浄土なのです。
私はお浄土の事を、この世の旅を終えたら帰る家であり、故郷であると思っています。そこには一足先に帰って行った父や母、そして多くの大好きだった人たちが待っていてくれる命のふるさとであると。だからそこを目指して歩んでいきたいのです。帰る家(目的地)があるから、道を間違えたら気づけるし方向違いもわかるのです、と言うことは帰る家(浄土)が今、私にちゃんとはたらいてくれているのです。
私にとってお浄土は、この世の縁が尽きてから用事があるのではなく、今、ここに願いとなって存在するのです。ですからお浄土とは阿弥陀さまの願いの世界であり、本願のはたらきであります。
親鸞さまは「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし。」とお手紙に仰せられました。「まっているよ」の呼びかけは、私が迷いの世界に生きているからでしょう。無明煩悩に満ち溢れた私の生きる世界、無明煩悩とはむさぼり・いかり・おろかさと言った自己中心性のことであり自分ではそれに気づけず迷っている姿だから無明というのでしょう。
親鸞さまは浄土を「無量光明土」とお示しくださいました、浄土はこの無明を破ってくださる光明でありさとりのはたらきであるのです。
私はこの人生の旅を終える時、この無量光明の極楽浄土に生まれ還らせていただくのです。
どうぞ安らかにお眠りください・・・
お葬式の時によく聞くフレーズです。
いや、いつまでも寝てると腰が痛くなりませんか、
しんどいと思いますけど。
私たちがこの世の苦悩をはなれ浄土に生まれるのが浄土真宗なのですが、浄土に生まれて眠っていることなんてできないのです。ジッと待ってるなんて出来ないほど忙しいのです(笑)
親鸞さまは「阿弥陀如来より2種の相が回向される(回向は贈りもの、プレゼントとお受け取りください) 一つには私が浄土に往生するという往相、二つには迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである(教行信証 教巻)」とおっしゃっています。一つは阿弥陀さまのはたらきによって浄土に生まれ仏となる(往生即成仏)往相の回向であり、もう一つは浄土に生まれた後、すぐさまこの世に還って有縁の人々から救うために様々な縁を通して人々に仏さまの願いを伝えようとはたらく還相の回向である、と教えてくださいました。
ですから私は、安らかになんか眠っていられません(千の風にもなりません)
なぜなら浄土に生まれ仏になると言うことは、この世に残した有縁の人々の苦悩を知ることになるからです。大切な人の悲しみを仏となって深く深く知ってしまうのです・・・あなたは大切な人の悲しみ苦しみを知って、ほおっておくことができますか?大切な人の苦しみに対して何もできないほどつらい事はありません。
しかし還相の仏となると言うことは、私が仏となり残された人々に寄り添える、慰め、導くはたらきができる、と言うことなのです。
ご法事を勤める時、私が手を合わせたのではなく、手を合わさせてくれたはたらきがある。大好きだったあの人が、お浄土から還相の仏さまとなって私を導いてくれていると感じることのできる世界があるのです。そして私がその仏となる、私がその人の南無阿弥陀仏になる、なれる、それが浄土真宗と言う教えのダイナミックなところだと思います。
私たちは同じ浄土真宗の教えを聞いて一緒に「ありがたいね♪」と喜ぶ人たちのことを「お同行さん」と呼んできました。これは親鸞聖人が「とも同朋」「御同行」とあなたと私はお念仏を喜ぶ仲間ですね、とそう呼んでくださったからです。阿弥陀さまが私を抱きとってくださる、そのおハタラキと願いに安心してこのままをお任せする、そうアナタもアナタも、そして私も同じ共にお浄土へ生まれてゆく仲間なのですね、と言う呼び名なのです。
でも、悲しい事に・・・私たちの教団には この仲間を裏切り、差別してきた歴史があります。つらい事ですけど、このことをしっかりとお伝えし、ごめんなさいと言わなければなりません。本当に申し訳ありませんでした。
身分差別が激しかった時代、当時のお同行さん方は人の命を軽んじるような時の政権の在り方を批判し声をあげ行動を起こしました(代表的で有名なものが一向一揆)しかしそれは力によって抑え込まれます。するとその後、時の政権に物申さなくなった私たちの教団は、様々な差別から起こる人々の苦悩に対して「来世はお浄土に生まれるから、この世では我慢を」と、いわゆる「アキラメの浄土」を説くようになりました。当然、浄土は死後の問題へ(死んでからのこと)とすりかえられ、平等の理念も失われて行きます。それが教団そのものの抱える差別構造となって、その後も国家の顔色をうかがいながら、幾度もの戦争へ積極的に協力するようになるのです。
その誤った教団の在り方から、宗祖親鸞聖人のみ教えに生きる御同朋の教団となるために、深い慚愧のもと本来のあるべき姿を取り戻そうとして始まったのが同朋運動でしたが、その始まりは簡単なことではありませんでした。多くの方々のご苦労によりそれは教団全体の基幹運動となって行きます。その成果は部落差別のみならず、世の中の多くの差別、いくつものハラスメント等への気づきや非戦平和への運動へと展開されて行ったのです。
現在宗門では「実践運動(御同朋の社会をめざす運動)」が行われていますが、残念ながら、必ずしも部落差別や戦争協力などの教団の過去の責任を踏まえたものにはなっているとは言えません。そしてそれを学ぶ、知る機会(各種研修会)も減っているのが現実ですし、まるで差別など戦争協力などすでに過去の事と言わんばかりです。その証拠に若い僧侶の中には教団の差別の歴史など知らない方も増えてきています。
阿弥陀さまにとってすべてのいのちは金色に輝く仏の子、宝の子であると聞かせていただきます。しかし現実には未だ部落差別をはじめとする様々な差別事象や偏見があり、宝の子であるはずのいのちがお互いを傷つけあっています。また国内のみならず世界に目を向けてみますと「テロ」や「核」による恐怖や、人々を力によって支配しようとする傲慢さに溢れています。そこには見えてくるのは敵対する相手を悪として、自らを正義とする身勝手な自己中心性に振り回される愚かな人間の姿です。
「お浄土」はそれと対比することで「迷いの世界」の姿を明らかにしてくださるはたらきです。
私たち僧侶にとって、過去に自らが行ってきた事実を学び深い反省のもとで、戦争や差別、環境破壊などのさまざまな社会問題に向き合うことは、浄土によって明らかになった、真の平等の願いに照らされた念仏者としての大切なあゆみなのです。