浄光寺について

ごあいさつ

ごあいさつ

ようこそ、浄光寺のホームページへ。

 高千穂町には浄光寺が2ヶ寺あります。ここは高千穂町三田井にありますので地元の人には「三田井の浄光寺」と呼ばれています。沿革にも書いてありますが、こちらの方が後からこの町に来ていますので、なんだか申し訳ない気持ちです(苦笑)

また、このお寺は高千穂町役場と高千穂警察署の間にあります。位置としてはわかりやすいのですが、入り口はとてもわかりにくくて・・・こちらも申し訳なく思っています(汗)

 

 さて、宮崎県の高千穂と言えば高千穂峡、そして高千穂神社や天岩戸伝説など神話をイメージされる方が多いと思います。確かに観光地として神話の国、神々の里として多くのメディアに取り上げられています。けれども高千穂町内にも仏教寺院がは9ヶ寺ありまして、そのうち浄土真宗寺院は6ヶ寺(本願寺派5ヶ寺、大谷派1ヶ寺)です。この地にも南無阿弥陀仏のお念仏はしっかりと至り届いています。親鸞さまに導かれて、阿弥陀さまのあたたかいお慈悲に包まれた安心の日暮しのあるこの高千穂町なのです。

 

 このお寺の事を知っていただきたい気持ちと、阿弥陀さまの願いを少しでも聞いてもらいたいと思いホームページを立ち上げたところです。

どうぞゆっくりとお参りください。 なんまんだぶつ

 

       照耀山浄光寺 第13世住職 岩尾秀紀

 

浄光寺の歴史 大分から高千穂へ

浄光寺の歴史 大分から高千穂へ

浄光寺のご本尊(阿弥陀如来)の背に
豊前国下毛郡金吉村 浄光寺 浄安 の文字

 当照耀山浄光寺の歴史を辿りますと、寛永元年(1624)に豊後大友宗麟の家臣江藤外記の第二子、金吉庄右衛門が豊前の国下毛郡金吉村(現在の大分県下毛郡耶馬溪町)において仏道に帰依し邸内に持仏堂を建立し、 浄光庵と号すると共に自らが第一世 「釋了順」と称されましたことに始まります。

浄光庵、 第四世 「釋浄安」 の時、 正徳五年六月十六日 (1714) に 「浄光寺」の寺号の允許を受け木仏阿弥陀如来本尊、親鸞聖人、蓮如上人、七高僧の御影を拝戴して浄土真宗本願寺派照耀山浄光寺となりました。すなわち「浄光庵」第四世「釋浄安」師が浄光寺第一世となられたのであります。

 第九世「釋大乗」師の時、豊前国宇佐郡駅館村(現在の大分県宇佐市)の正明寺住職岩尾善念と寺号を交換、岩尾善念が浄光寺第十世となってこの寺号を携えて明治26年高千穂三田井村に転住しこの高千穂組浄光寺となりましたが、第十世善念には後継者がなく、当時の門徒が奔走し第十一世岩尾(旧姓 一万田)善靖を延岡妙専寺から養子として迎える事になりました。

 現在の本堂は明治初期の廃仏毀釈により廃寺となっていた押方「泉流寺」(当時は押方人民共立小学校の校舎として使用されていた)の本堂を移転建築して、明治35年に建てられたものであり、その後昭和25年には当時の門徒総代、多くの門信徒の皆さんが奔走して本堂の屋根変え等の改築がなされております。

 また第二次世界大戦中の昭和19年には当時の梵鐘が戦争の武器とするための国の金属供出の令により供出され鐘楼も朽ち果てて行く悲しい出来事もありましたが、門信徒と住職の熱意により昭和53年に梵鐘 鐘楼ともに新鋳新築されました。

 この様に歴史を顧みますときそこには歴代住職と門信徒が手を取り合って念仏を拠りどころとして浄土真宗のみ教えと浄光寺を護持してこられた御苦労が偲ばれます。

 

 そして2010(平成22)年の12月には門信徒のご苦労あって門徒会館が完成、2024年3月には浄光寺門信徒納骨堂「寿光堂」も整備され現在に至っています。

浄光寺歴代の先達方 

 

歴代法名坊守入寂
開基   
第一世釋浄安 (じょうあん)不明不明
第二世釋教惠 (きょうえ)不明不明
第三世釋慈超 (じちょう)不明不明
第四世釋融肇 (ゆうちょう)不明不明
第五世釋觀受(かんじゅ)不明不明
第六世釋達性 (たっしょう)不明不明
第七世釋大忍 (だいにん)不明不明
第八世釋顕乗 (けんじょう)不明不明
第九世釋大乗 (だいじょう)不明不明
中興開基   
第十世釋善念 (ぜんねん)ケフT10.3.21
第十一世釋善靖(ぜんせい)フジS33.9.20
第十二世釋善照 (ぜんしょう) (孳)幸子H14.1.26
第十三世

釋秀紀 ( しゅうき)

住職  岩尾秀紀

釋蓮葉 (れんよう)

葉子

 

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